キリストの聖体の主日 A年
今日は「キリストの聖体」の祝日です。人間は切望する生き物です。人間は身体を支えるものだけで生きているではなく、人生に方向と意味を与えるものによっても生かされています。人間の深い内面において、人間は決して完全に自分自身に閉ざされることはなく、自分を超える何か、限りないものに開かれています。
聖アウグスチヌスは、「神よ、あなたはわたしたちをあなたのために造られ、だから、わたしたちはあなたの元に安らぎを得るまで心が落ち着かない」と言いました。
聖アウグスチヌスのこの言葉は、感情的な不安だけではなく、人間の存在の最も深い構造に触れるものです。限られたもの、例えば「食料」、「飲食」、「住まい」、服装」、「成功」、「業績」、「他者の承認」、「人間関係」などは、人間の心が求める究極的な充足を与えてはくれません。限られたもの或いははかないものは、すべて良いものですが、決定的なものではありません。ですから、人間は自分の存在を本当に支える究極の基盤が何であるか問い続けます。
この切望の中で、わたしたちは「キリストの聖体」の祝日を祝います。わたしたちは過去を回想するのではなく、生きた現実を伝えます。神は遠くにおられるのではなく、御聖体を通してわたしたちの中に生きて、共におられるのです。
第一朗読申命記は、わたしたちを砂漠へと連れて行き、人間がもろく壊れやすい存在であることを描写しています。そこでイスラエルは、自分の力だけでは生きられないことを学びます。神は生命が日々の恵みであることのしるしとしてマナを与えます。しかし、マナはあくまで限られたものであり、人間の最も深い切望を満たすことはできません。
「わたしは天から降ってきた、〈生きるパン〉である。ことパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と今日の福音書の中で書かれています。
ここでわたしたちは、シンボルを超える神秘に直面します。イエス・キリストは「パン」を与える者として登場するだけでなく、イエス・キリスト御自身が「命のパン」そのものです。
イエス・キリストは単なる「神の賜物」を伝える者ではなく、「神の賜物」そのものです。イエス・キリスト御自身は与える者であり、同時に与えられる物でもあります。イエス・キリストは御自分の外にあるものを与えるのではなく、ご自身を与えられます。
このような理解を踏まえて、わたしたちは御聖体の神秘の核心に入ります。教会の伝統、特に聖トマス・アクィナスの思想において、これは「聖変化」という言葉で表されます。ここで意図されているのは、感覚で捉えられたり、物理的に説明できる変化ではなく、実体という最も深い現実のレベルでの変化です。見た目はパンとぶどう酒のままですが、最も深い現実においてイエス・キリスト御自身が、現実的に、完全に、そして生きて存在しています。
哲学的に言えば、これは現実が目に見えるものだけで構成されているのではなく、感覚では捉えられない最も深い次元を持っていることを意味します。そしてその最も深い次元において、そこに存在するのはイエス・キリスト御自身です。
この出現は物と物の間にある物の出現ではなく、イエス・キリスト御自身の人格の出現であり、神性と人性において完全なものです。イエス・キリストはシンボルとしてではなく、信仰に与えられる現実として出現します。
だから、御聖体はただのしるしではなく、むしろ出会いです。その中でわたしたちは何かを受け取るだけでなく、ある人を受け取ります。そして、この出会いの中で、わたしたちは変えられ、イエス・キリストとの命の交わりに引き込まれます。
「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体である。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と聖パウロは第二朗読で強調しています。
この神秘の中で、「感謝の祭儀」は決して個人的な事柄に過ぎるものではありません。イエス・キリストの体を受ける人は誰でも、イエス・キリストと、そして同時にわたしたちはイエス・キリストにおいてお互いに結ばれます。
ここから、わたしたちは、「感謝の祭儀」が道徳的な結びつきや社会的連帯について語るだけでなく、より深い交わりについて語っていることに気づきます。それはイエス・キリストの神秘的な体としての教会です。御聖体を受ける人は、お互いに親しくなるだけでなく、イエス・キリスト御自身のひとつの命に霊的に結ばれます。
だから、「感謝の祭儀」は人間についての新しい見方を形成します。それは、人間を有用性、業績、または能力で評価する論理を拒否します。「感謝の祭儀」の中で、人間はまず最初に愛される存在であり、何かを生み出す者ではありません。
人の価値をその成果や地位、業績や有益さで測ることが多い世界において、「感謝の祭儀」は根本的な真理に注目します。
わたしたちは愛されるためにこの世に生まれた。
賜物は業績に先立ち、
恵みは努力に先立ちます。
信仰生活は、
神の愛に根ざしています。
神の愛がなければ、
信仰生活は無意味です。
だから、御聖体を拝領する人は誰でも、イエス・キリストと結ばれるだけでなく、他の人々とも結ばれることになります。イエス・キリストとの交わりは同時にわたしたちの兄弟姉妹との交わりでもあります。
それゆえ、「感謝の祭儀」は、信徒の個々の集まりとしてではなく、生きているイエス・キリストの体として教会を形成します。同じ一つのパンの中で、神ご自身が人間の間の隔たりを取り壊されます。「裕福な者と貧しい者」、「強い者と弱い者」、「近い者と遠い者」、さらには人間的には結びつけがたい者たちの間でさえも。
そのため、「感謝の祭儀」は現実的な実存的結果を持っています。それは、自分自身に閉じこもるあらゆる形の利己主義、他者の苦しみに対する無関心な態度、そしてイエス・キリストの体の一致を破壊するあらゆる形の分裂に反します。「感謝の祭儀」の中でイエス・キリストを受け入れながら、他者に対して心を閉ざしたままでいることは不可能です。
逆に、「感謝の祭儀」はわたしたちをイエス・キリスト御自身の生き方に入るよう招いています。お互いに大切にし合い、お互いに気を配り、お互いの重荷を背負い、弱い人々、疎外された人々、忘れられた人々に心を開くことです。
祭壇で受けるイエス・キリストの愛は、日常生活の中で具体的な形となるべきです。したがって、「感謝の祭儀」は祭壇で止まることなく、わたしたちの具体的な生活の中で続いていくのです。励ます言葉の中に、正しい行いの中に、そして助けを必要とする人々のために存在する勇気の中に。わたしたちが「キリストの聖体」の祝日を祝うとき、わたしたちの日常生活がイエス・キリストの存在によって支えられていることを自覚しながら、この一週間の旅路に踏み出していきましょう。