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年間第11主日  A年

ある暖かい家庭の台所での素朴な会話でした。「このリンゴを満ち溢れる愛情で分けなさい」と母親は次男に言いました。「満ち溢れる愛情で分けるって何」と次男は母親に聞きました。「このリンゴを分けて、あなたのお兄さんに一番大きい部分を挙げなさい」と母親は次男に言ったのです。次男は母親の指示に従わず、とんでもないことをしました。そのリンゴを取って「お兄さん、このリンゴを満ち溢れる愛情で分けて下さい」と兄に言いました。
この会話は「与える」ことの大切さに関して、わたしたちに伝えようとしています。次男は母親の指示に耳を傾けようとしなかったにもかかわらず、「与える」ことの大切さについては十分に理解しています。次男の欠点は、兄にリンゴの大きな部分を譲ろうとしなかっただけです。兄は「与える」ことの大切さだけではなく、「与える」ことの大切さがどのように相手に届くかを十分に分かっています。
「与える」ことの大切さに関して、日常生活の中で、最も知られていない農家たちの偉大な習慣から学ぶことができます。「地球に良い種を与えれば、地球はその種を何倍にも実らせてくれる」と彼らは考えています。農家たちは、収穫の時に、一番良い種を取って置いて、次に蒔く季節まで大切に保管しています。その地方にひどい飢餓があっても、決してその種を食料として扱わないのです。
与えるから与えられます。得ようとしたら、まずこちらから与えます。その能動性の大切さを、農家たちはいわば自然の掟として得ているようです。しかも、与えられたいから与えるという交換条件ではなく、求めることなしに与える無償の提供こそ、最上の美徳と農家たちは考えています。
「ただで受けただから、
ただで与えなさい」と
今日の福音書の中で書かれています。
わたしたちにとってただで受けた最も大切なものは「こども」です。ですから、子どもたちは神からの贈り物です。彼らが心の自由と体の自由を得て成長するため、愛に満ちた場所を提供するようにと神がわたしたちに与えられたのです。子どもたちは見知らぬお客さんのようなものです。もてなしを求め、よき友となり、その後、再び彼ら自身の旅を続けるために去っていきます。まさに贈り物であるが故に、計り知れない喜びと限りない悲しみももたらします。
良い贈り物とは諺にもある通り、「二度与えられる」ものです。わたしたちは受けた贈り物を再び与えなければならないのです。子どもたちが勉学のために、仕事を探したり、結婚したり、どこかの団体に所属したり、あるいは、ただ独立しようとして家を離れる時、悲しみと喜びが共に訪れます。
わたしたちの子どもは、本当はわたしたちのものではなく、他の人への真の贈り物となるためにわたしたちに与えられたということを深く悟らされます。
子どもたちは神に属するものです。ですから、神への信頼を表わす偉大な行為の一つは、彼ら自身の選択にまかせ、自分で道を見つけ出させてあげることです。「親」や「教育に携わる人」などのなすべきことは、子どもたちが従うべき道を見せ、感動や可能性を与え続けるだけです。その道を選ぶかどうかは、子どもたちの自由です。
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言い伝えによれば、鷲は子どもたちに激しい訓練を与える前に、それまで住み慣れた巣を破壊します。その後、子どもたちを高い岩地に連れて行き、そこから子どもたちを落とします。愛情のない厳しい母親だと思われるかもしれませんが、実は、しっかりした土台を子どもたちに与えようとしているのです。厳しい訓練の後、鷲の子どもたちは強くたくましく自由に高く空を飛ぶことができます。母鷲は鞭だけではなく、鞭の先にはリンゴがあるということを子どもたちに意識させようとしています。
住み慣れた巣を破壊する唯一の目標は、子どもたちに「自由」や「可能性」を与え、また、子どもたちがこれからの人生において、自分たちで自分なりに創造していくことです。
どの国でも子どもたちが、人生において、いつも思い出すのは、言葉より、沈黙で支えてくれたこと。大きなことをしてあげる必要もなく、苦しい日々に、ただ隣にいてくれたこと。笑顔より、涙を拭いてくれた手。弱い自分を責めなかったこと。最終的には、子どもたちの心に残るのは、彼らが体験した善良さだけです。
親は家族を守ります。子どもたちは親の背中を見て自分たちの人生を描いていきます。母親が年老いても美しいのは、子どもたちに何かを与え続けているからです。「与えることこそ幸せだ」という隠れた真実を示すのは父親たちです。
「ただで受けただから、
ただで与えなさい」というイエスの教えを意識しながら
この一週間の旅路に踏み出していきましょう。

2026 Catholic Ehocho

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