年間第13主日 A年
今日は年間第13主日です。西洋では 「話すこと」 は不可欠です。生活のあらゆる事柄に関しては何もかもすべて言葉で表現します。抵抗しなければ、議論しなければ、人間は存在しないものとみなされます。言い換えれば、抵抗は強く、沈黙は弱い。抵抗することはスマートです。
さまざまな背景を持つこの西洋風のライフスタイルは、テレビ、インターネット、ラジオ、ソーシャルメディアなどを通じて急速に広まったのです。民主主義、人権、これらすべてが東にもたらされたので、東の多くの人々はさまざまな場面で西洋の服を着た東洋の精神に混乱しました。
村の生活をバロメーターとしてよくご覧なさい。毎朝、鳥が歌います。誰が大統領になるのか、未来はどこに向かうのか、選挙でどの政党が勝利するのかなどについて議論することなく、鳥たちはありのままの単純さでさえずります。
今、理、真、味があると言われている人間の生活と比較してご覧なさい。昔、浴室で歌う人がよく見られたのです。今、浴室から歌声が聞こえなくなったのではないでしょうか。また、歌う時間が文句の時間に変わっていくことは、現代社会の現象です。鳥がたくさんいる村では、人間はテレビを見ることを好むのです。毎朝の生活のテーマは「鳥は歌い、人々は呪う」ことです。
言い伝えによれば、昔、動物たちは人間に対する嫉妬感があったのです。その嫉妬感の源は、動物たちには学校がなかったからです。人間に負けたくないために動物たちは学校を建設したのです。水泳の教師は魚です。飛ぶための教師は鳥です。走るための教師は狼です。何年か経って動物たちはそれぞれが自然の性質を持っていることに気づいたのです。動物たちの学校は閉校されました。
自然が教えているように、誰かが大統領や裕福なビジネスマンになることを禁じるものは何もありません。すべてに生まれ持った特性があります。例えば、鳥の特性は飛ぶことです。狼は走ることです。魚は泳ぐことです。人間の特性は相手の悲しみを理解できる心を持つことです。
人間は皆「問題」や「苦しみ」に直面する時それらのことに反応し、失くそうとします。退屈を失くすために食べます。飽和を失くすために娯楽を捜します。病気を失くすために薬を飲みます。これは、多くの心理学者が認めているように人生に抵抗する具体的な形です。あなたが抵抗するものは持続します ― what you resist persist。ですから、わたしたちはよりよく生きることができないのです。わたしたちは暗いトンネルからなかなか出ることができません。わたしたちは何事にも抵抗し続けるからです。抵抗に満ちたほとんどの人の生活とは異なり、瞑想の道を歩む人は抵抗しないように教えられています。裁定せずに知ること。区画化せずに見ること。判断せずに聞く。痛い、健康、嬉しさ、悲しさ、退屈等すべてありのままに受け入れます。賢者たちが言うように「すべての波を取り除くと、海洋を失います – when you remove all waves, you will lose the ocean」。
英語の「understanding」は、「分かる」という意味です。逆にするとstanding underになります。「下に立つ」という意味です。机の足のように、重くても机を支えるためにしっかり立ちます。瞑想家たちも同じです。彼らは人生の問題に直面した時すぐに失くそうとしません。苦しみは天罰だと彼らは一切考えないのです。彼らは「人生の問題」や「苦しみ」などに出会った時、謙虚に受け入れ、その問題が起こった理由を丁寧に捜し続けます。そうすることによって最終的に「自己中心」があらゆる人生の問題の源であることをはっきり悟ります。自己中心になればなるほど、より苦しくなります。自己中心が小さければ、問題は軽くなります。
人生のあらゆる問題などを喜んで受け入れると、その時点で問題は消え失せます。暗い所に紐がある状態を想像してご覧なさい。皆、暗いから蛇だと思うでしょう。電気をつければ蛇は消えます。意識は恐怖、疑い、憎しみを消す光と同じです。
見るときはただ見るだけ。聞くときはただ聞いてください。心配しないでください、すべてはこれまで、そして今、そしてこれからもうまく行くのです。鳥たちは学校に通っておらず、知性という言葉も知らないが、本来きちんと暮らしています。人間はもちろんのこと、本来きちんと生きています。これは抵抗のない瞑想です。エゴが不幸の根源であることを(知性ではなく)実践を通して理解しません。自我の暗闇は意識によって照らされるとすぐに消える。抵抗するものは何もありません。これらのことを理解している人は、不正義の反対は正義ではなく、思いやりであると確信します。
「自分の十字架を担ってわたしの後に従って来ない人は、
わたしに相応しくない」と今日の福音書の中で書かれています。
わたしたちの担う十字架とはどんなものでしょうか。殉教者は一度でイエス・キリストと同じように自分の命を捧げつくしたのですが、わたしたちは、特別な犠牲よりもむしろ日常生活を通して、家庭人として、社会人としての務めを果たすことによって、自分の十字架を担うことができるのです。
日常生活は十字架です。十字架を背負うということは、日常生活を担うことを意味します。わたしたたちの日々の生活を考える時、十九世紀のポーランドの詩人であるノルヴィドの詩句を思い出します。彼は「救い主の十字架を背負って己の道を行くか、自分自身の十字架を背負って救い主に従うか、道はその二つしかないのです」と言っていました。
「ありのまま自分を受け入れる」ことは、
それは救い主の十字架を背負って己の道を行き、
また、自分の十字架を背負って救い主の道に従うということではないでしょうか。