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年間第16主日  A年

わたしの故郷には「コト」と呼ばれる一種の毒豆が自生しています。毒豆ですが、何回も煮れば食べられます。幼い時からこの豆を食べてきたので、好物に感じています。ですから、好きな食べ物は「何ですか」と聞かれると、いつもこの豆の名を言います。
当時、この豆を食料として味わう家族は大変差別されましたが、わたし自身この豆は「恩人」であるだけでなく、「村の隠れた優れた知恵」であると考えています。毒豆を食料に変えるにはやはり知恵が必要です。
この毒豆から学べることは二つあると思います。一つは「努力」することです。毒豆であっても何回も煮れば美味しく頂けます。人生も同じです。手に入れたいものがあれば、必死に努力すれば必ず手に入ります。不正に得られるものでなければ、全てはよいものです。もう一つは「捨てる」ことです。捨てるとは何もかも捨てればよいというのではなく、本当に必要なものだけに囲まれて生きていくということです。毒が入っていても、何度も煮れば美味しい豆になるのです。煮ることによって、豆に付いていた必要のない部分である毒が流れていきます。
「コト」は村人たちにとって、単なる毒が入っている豆ではなく、その毒の下には蜜が溢れています。この豆は、自然界のすべての物がわたしたちの生活に部分的な幸福をもたらすことを確認させてくれます。有毒な豆がそれほど生命に役立つなら、無毒なものはさらに役立つことでしょう。
今日の福音朗読は、「毒麦」のたとえです。このたとえでイエスは、いったい何を指摘しようとしているのでしょうか。二つあると思います。一つは「人を裁くことの危険性」だと思います。人間は心の中まで見分けることができません。それは神の領域です。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただ一人イエスだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。他者を批判するより、一人ひとりの心がイエスとの真実の出会いをとおして実るように祈り合い、認め合ううちに互いの弱さや過ちを背負うべきであり、自分の信仰が真実なものであるように、自分の心を厳しく見つめるべきでしょう。
もう一つは「イエスに従い、イエスを信じる人々の共同体の在り方」だと思います。当時、イエスを慕って集まってくる人々の中には、いろいろな人がいたはずです。社会の底辺で苦労を負っている人もいたでしょうし、地位のある人もいたでしょう。
イエスに近づいてくる動機もまた、それぞれ異なったものであったでしょう。日々の生活に疲れ、慰めと希望を求めてイエスに近づいてきた人もいたでしょう。イエスの人格の神秘にひかれ、イエスに従う人もいたはずです。誰が毒麦で誰が良い麦かを判断できる唯一の方は神御自身です。ですから、畑の主人であるイエスは毒麦を抜かないで、両方ともそのままにしておかれました。毒麦を抜こうとして、良い麦までも一緒に抜いてしまうかもしれないからです。
毒豆である「コト」と「毒麦」のたとえは、人生のあらゆる出来事の中に美しさを見つけ続けるようにと教えています。
神がわたしたちの手から何かを取り上げられるとき、それは神がわたしたちに厳しい罰を与えるのではなく、もっと良いものを受け取るためにわたしたちの手を開かせてくれるだけなのです。
さて、わたしたちは日頃から、何を望むべきでしょうか。
苦難のない人生、
頬のない涙、
病気のない旅路。
望むべきことはこれらのことではありません。
感謝する気持ち、
誘惑に負けず、
圧迫されても
裁かず、
悲しい時、
苦しい時、
嬉しい時、
神が永遠の笑顔で
導いて下さることを
望みたい」と願い求めながらこの一週間の旅路に踏み出していきましょう。

2026 Catholic Ehocho

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