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年間第22主日 A年

世界にとって十字架は、「呪い」や「死」を意味するかもしれませんが、わたしたちにとって十字架は「赦し」、「誇り」、「救い」、そして神との和解を意味します。

「十字架にかけられたキリストを、わたしたちは信仰と希望、愛と憧れで見つめなければならない。」「十字架を見つめると、イエスがどれほどわたしたちを愛しているかがわかる」と聖ボナヴェントゥラが言っていました。

イエスの苦しみは、人類に対する神の最大の愛のしるしです。十字架は、神が本当に人間を愛している証であり、神がイエスの中に現れ、人間への愛のためにすべてを犠牲にすることをいとわなかったというしるしです。

今のわたしたたちの日常生活の中で、「十字架を背負う」というのは具体的にどういうことでしょうか。

現代文化が快適さを重視する中で、十字架はキリスト教の価値観を思い出させてくれます。十字架はキリスト教の信仰の核心です。神の愛、キリストの犠牲、そして罪に対する勝利についての深いメッセージです。

さて、十字架と日常生活との関係をどう見るべきか見てみ見ましょう。三つのことを取り上げたいと思います。一つ目は、人生の挑戦の中の十字架です。誰にでもそれぞれの「十字架」があります。家族の問題であれ、仕事での悩みであれ、健康の問題であれ、人間関係の問題であれ、人はそれぞれです。でも、信仰をもって、十字架から逃げるのではなく、キリストと一緒に背負うことを学びます。一緒に背負う十字架は軽く感じられるでしょう。

人生の苦しみや困難の中で、十字架は常にある希望の思い出となります。暗闇の中の光のように、十字架は慰めと永遠の命の約束を与えてくれます。それを考えると、自分自身を見つめ直し、人生や自分の行いの意味を問いかけるように促されます。

二つ目は、十字架は霊的な成熟への道です。十字架を背負うことは、生活が「より困難になること」や「自分を苦しめること」を意味するではなく、人生がより目標を持つようになるということです。わたしたちは自分を委ねることを学び、忍耐を学び、より霊的に成熟した人間になるのです。霊的な成熟は年齢で決まるものではなくて、人生の中で十字架を拒まない覚悟によって決まります。

三つ目は、十字架と連帯です。イエスは自分のために十字架を背負ったのではなく、わたしたちのために背負いました。ですから、わたしたちが人生の十字架を背負うとき、同じく自分の十字架を背負う他の人に関心を持つように招かれています。これがカトリック教会の社会的な呼びかけです。苦しんでいる人のそばにいることです。何もしなくてもそこにいるだけでいいのです。そこにいて、その人がとても重いものを背負っていることを感じることです。連帯は、嵐が来てもわたしたちをしっかり立たせる力です。一つの心が傷つくと、すべての心がそれを感じます。それが連帯の本当の意味です。一緒にいれば、いつもより強くなります。

わたしたちは時々十字架を重荷だと思うかもしれませんが、カトリック教会の信仰では、十字架は道です。永遠の命への道であり、より強く、愛に満ちた人になるための道です。快適さは舗装された道のようなものです。歩きやすいですが、上には花は咲きません。十字架はとげの多い道のようなものです。通りにくいですが、その上で花が咲くのを見つけることができます。

ここにいるわたしたちは、どの道を選ぶのでしょうか。「花のない舗装された道なのか、それとも花がいっぱいのとげの道なのか」と考えながらこの一週間の旅路に踏み出していきましょう。

2026 Catholic Ehocho

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