復活節第2主日
数年前、資料収取のために「ミラノ」「フィレンツェ」「アッシジ」「ローマ」四つの町を訪問しました。一番印象に残った町は、アッシジでした。アシッジに着いた翌日、一日中アッシジ駅に座ってずっとアッシジ町を眺めました。何故そのことをしたか今でも理由は分かりません。
夜になると夕食のためにホテルの近くにある素朴なレストランに入り込んだのです。夕食中一人の客が入って来てちょうどわたしが座っていた所に一つの席が空いてあるので、あの客はやってきてそこに座りました。
「アッシジはどうですか」と聞かれました。「アッシジは祈りの町だ」と答えました。「そのようなことを思って頂いて、アッシジ出身であるわたしは大変幸せです。別の話ですが、わたしは退職までミラノ町で滞在しました。今、この穏やかなアッシジ町で、残りの人生を全うしたいと思う」と彼は謙遜に言ったのです。
「アッシジは祈りの町」であると彼は言わなかったが、アッシジで残りの人生を全うしたいということは、アシッジは祈りの町ということを言っているのではないかと思いました。
「祈り」とは、自分の願いや要望を神にぶつけることではありません。自分は努力しないで、ただ神頼みで、病気治しや商売繁盛や受験合格をかなえてもらうのが「祈り」ではありません。
祈りは神の存在を思い起こし、自分の命を感じるものです。ですから、神への賛美や命への感謝が中心となります。祈りは、言葉で表されることがあります。しかし、基本的には言葉というよりも、心の問題です。賛美と感謝の気持ちで生きることです。祈りは、形式よりも、生活の基本的な姿勢です。言い換えれば、わたしたちは言葉で祈るだけでなく、態度で祈ることができます。どんなときに祈ればよいでしょうか。イエスは「いつも祈りなさい(ルカによる福音書18章1節)」と言っておられます。とりわけ、生活の中でたえず祈るという意味ではないでしょうか。
聖フランシスコ アッシジ教会のある壁に次の言葉が書かれています。「あなたが幸せになれなかったら ・・・・ わたしは光である。しかし、あなたはわたしを見えない。わたしは道である。しかし、あなたはわたしに従わない。わたしは真理である。しかし、あなたはわたしを信じない。わたしは命である。しかし、あなたはわたしを探さない。わたしは師である。しかし、あなたはわたしの言うことに耳を傾けない。わたしは主である。しかし、あなたはわたしを疑っている。わたしはあなたの友である。しかし、あなたはわたしを大切にしない。 だから、あなたが幸せになれなかった原因は、わたしにあるのではない。」
この世に生きている間に、誰でも大きな幸せを感じる瞬間があると思います。人間は皆そのような幸せの絶頂にある時、その瞬間を永続することを望みます。かつて大きな幸せを経験したイエスの一人の弟子であるペトロは、イエスに向かって「先生、わたくしどもがここにいるのは素晴らしいことです。三つの仮小屋を造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリアのために」と言ったのです。しかし、どんなに望んでも、三つの仮小屋を造ることは許されなかったのです。
「真の幸せとは時間を止めたり、瞬間の輝きを保ったまま生き続けることによってではなく、神が導いておられ、前方にあるものはすでに経験したことよりもさらに素晴らしいという信頼をもって神に従い続けることによって、達成されるのである」とイエスはこれらの価値観を弟子たちに示そうのではないでしょうか。
本校南山中学・高等学校男子部では毎年高1年生と高2年生の希望者を対象にして校外で実施される「イタリアキリスト教研修」という校外行事があります。クリスマスの日にヴァチカン市国内で研修を執り行われます。カトリックの総本山・ヴァチカン市国で行われる教皇の一般謁見に参加します。教皇を間近で拝見できるチャンスです。世界中から集まる人々と共に特別な体験をします。
「幸せとは旅の仕方であって、行き先のことではない」とロイ・M・グッドマン(米国の政治家、実業家 1930~)が言ったように、毎年「イタリアキリスト教研修」に参加している我が生徒諸君はよりよく実感できたと思います。
イタリアキリスト教研修は、ただの旅あるいは研修だけではなく、祈りの旅とも呼ばれます。旅最中に我が生徒諸君は多くの人々の幸せを願ったと思います。相手の幸せを願うということは本来祈りの意味であるのではないでしょうか。